園長先生からの手紙

歳時記


1月
いつも子ども達とともに

 年が明けたら歳神様はゆずり葉にのっていらっしゃる。年中行事の中で、まだいちばん私たちの今の生活に色濃く残るお正月、お雑煮の作り方や味付けに、その姿が残っています。 心をあらたに取り組む謹賀新年、私たちも次年度に託して行くもの、自分たちの年度に始末をつけておかないといけないもの、様々な課題に向き合う正念場の季節です。


 子ども達の仲間でできあがっているみくま幼稚園の共同体も成熟期を迎えます。仲間の中に身を置くことの大事な学びが個人という人それぞれの形で深まって行くのが3学期です。
 お客さんのように座っていた人が参加をするようになる、参加をして行く喜びや苦労を体験してやりがいをかんじてゆく、やりがいを感じる世界をどうやって守り、発展させ、自分が貢献できる喜びを感じるようになるか、その作業を見守る一年間、春には新たにみくま幼稚園の共同体に参加をしにくる新入園児を迎えます。
 してもらったことをしてかえす、してほしかったことをしてあげる、季節が一回りしたところに立っている子ども達、成長の中の、一回りまわって大きく育っている子ども達、その姿を楽しみに、これから土手の桜もつぼみを宿し、春をまっています。


 年長さんには最期のみくま幼稚園での冬が来ます。
 「いつだって、どんなときだって、いつも子ども達とともにあろう」 みくまの先生達はいつも、いつまでも、ずっと子ども達とともにありつづけます。
 みくまのお母さん達がいつも、いつまでも、子ども達とともに走り続けて行くように。 月日が過ぎて、その走る足取りが遅くなってしまっても、心はいつもそばにいて、はるかに見守っているように。 
私たちの手渡した小さなたすきがいつもいつまでもお母さん達の心の中にかかっているように。 そして、親として、持って与えられた時間のかぎり、子ども達とともにいてくださるその姿のように。


3月
人を世話する

いよいよ最期の月の誕生会となりました。 3月の早春に生まれた子ども達、春をまつ冬景色のなかに、春の兆しをたくさん詰め込んだこの季節、この季節に生を受けた子ども達はきっと感性ゆたかで感情豊かな人となることと思います。
ひと雨ごとにこころなしか大きくなって行く桜のつぼみ、やがて満開の春を迎えることとなるでしょう。その姿に、子どものために人生を変えて、自分の時間を与えて、おしみなく愛を注いで施そうとする若い母親達の姿を思い浮かべます。


 親になった人ならば、みんな子どもが親にしてくれることはわかってきます。子どもを育てることは自らが育って行く過程であることを互いに手を握り合って初めての道中を歩む中でだんだんとわかってくるのです。 そしてこれから長い時間が経ったとき。 人として多くの学びを本当に積めたとき、本当に子どもに感謝をするということができるようになってゆくのです。 子どもは人を世話をしたことがありません。 自分が世話をされていることは知っていますがわかってはいません。 まだわからないでいるのです。 世話をするということは、お手伝いではないのです。 惜しみなく与え、そっくりとやってしまうこと、見返りはなくただ注ぎ、施すということ。 そして感謝というのは、なにかの代償ではなく、ただただ一方的に与えることと同一のこと、御礼と感謝もちがうのです。
 なにかをしてくれてありがとう、そう言うことを知っている子どもからある時 「今まで育ててくれてありがとう」 そんなメッセージを手渡され、唐突にそう言って相手が立ち去るとき、あなたの答えなどなんの期待も予想も求めずに、ただただ自分の思いを告げにやってきたとき、それは子どもに感謝をされたということなのでしょう。 そして、感謝をされるに値するだけの人間になったことが姿となってあらわれたと知るでしょう。


 出来事というものはほんの少し目に見える形で現れただけのことで、それはもうずいぶん前から、桜の満開の花が小さなつぼみの一つ一つに宿されていたように、自分という人間のなかにだんだんと備わっていったのだと、感じる日がくるのでしょう。


4月
いっしょに歩いて参りましょう

進級式、入園式がおわると、子ども達の新しい生活のスタートです。 幼稚園に初めて来た子、お引っ越しをしてきた子、クラス替えを経験しながら進級した子、祝福された出会いがこれからたくさん待っています。


 おぼえていますか。初めて我が子を抱いた時のことを。後のことも、先のことも考えず、ただただ会えたことにうれしかったあのときのことを。 子どもは幼稚園でそんな出会いをたくさん体験して、そんな思いを繰り返してゆきます。 ただただ無性にうれしくて、寂しくても、苦しくてもやっぱり明日はもっといいことあるだろうと思っている。
 私たちはそうした毎日をたくさん過ごして大人になってきたのです。年をとれば大人になるわけではありません。 子どもを産めば、子どもが家族に加われば親になるのではありません。 これから子どもに支えられ、子どもを支え、パートナーライフを通じて親子になってゆくのです。 親になってゆくのです。 いっしょに育って変わってゆくのです。


 この季節、子ども達は毎年やってくるけれど、同じ子どもに出会ったことは一度たりもなく、同じ子育てをしているお母ちゃんも一度も見ませんでした。 みんな自分のやりかたをつくっていくのです。 どこかに正解はありません。 今の実力で精一杯、考えて間違えて確かめて歩いて行くのです。 どうぞ私たちといっしょに歩いて参りましょう。


 みくま幼稚園では月に一度のお誕生会を開きます。お誕生児の保護者の皆様にも幼稚園のお誕生会にご参加いただいて、楽しいひとときをすごします。 小ホールでのお祝いの会の後は、クラスでのお誕生会プログラムがあります。 保育室でのプログラム終了後は、お時間の許す方は小ホールでのおはなし会にもご参加ください。こどもの成長、子育てについて楽しいおはなしの会をもつ予定です。


5月
小さな愚痴

五月はさつき、さみだれ、さおとめ、お田植え祭や神事が多い季節です。 稲の国の名残りとなる年中行事がまだ残るこの時期、稲の景色は見えなくても、緑の香りが風の中にただよい、なんとも美しい芽吹きに心を奪われます。


 新学期にお客さんだった子ども達も、そろそろ主人公、運営側、参加者になってみくまのコミュニティの中で活動を始めます。あたたかな、支え合い、競い合い、ともに走り会う仲間達が様々に営みをしながら命をもって生きている小さな社会、集合体、それがみくま幼稚園です。  子ども達ひとり一人をみつめる、子どもをみる、ということはどういうことか、私たちは日夜その努めを果たすため悩み、考え、実践しています。 子どもに親切であるということにとどまってしまうのではなく、なにが子どもの人生にとって有意義な体験なのかという問題に向き合っていきたいと考えています。


 幼稚園に行けるのは楽しいもの、でも行かなければならないとなればつらい時もあるものです。 文句がでたり、嫌な思いをしたことなどお家で子どもが愚痴を言い出したら、それはお客さんから参加者側になるきざしの時。 未熟な者同士が支え合い、つながりあって育ち合う過程で、これから、ずっとここでやっていく、それについて乗り越えたり、やり過ごしたり、解決したりして行かなければならないものが見えたとき、人はそうした時期を経験します。そしてそれをもってもあまりある喜びや楽しみややりがいがあるからこそ、次の日もまた参加しに行こう、自分の居場所へ戻っていこうと前を向いてそれらと向き合っていくのです。


私たちはその一つ一つ、ひとり一人に向き合って、やりがいのある苦労をともに体験して行きます。子ども達が小さな愚痴を言い始めたら、小さい体で生まれてこの方、見たことも聞いたこともない初めての体験を学んでいる苦労をねぎらってやっていただきたいと思います。 そして私たちにも小さな耳打ちをして下さい。それは、初めて出会った赤ちゃんを一生懸命その将来を案じて子育てしてきたお母さん達と同じ姿、そして毎年一人として同じ子どもがいない中で悩み考え実践している私たちの姿でもあると思うのです。 私たちは、みんな、ともに同じ道の上にいて、互いの成長をまのあたりに見まもることができる、そう私は信じているのです。風薫る季節、子ども達の健やかな成長を願って誕生会を開きます。お誕生児保護者の方はどうぞご参加ください。


6月
大好きな居場所

6月は水無月、和菓子の名前にもあるこの月は田植えのためにたくさんの水を必要としたことに由来します。 水無月の頃は、「夏越しの祓え」(なごしのはらえ)の季節。陰暦の6月晦日、6月の末日に罪やけがれを除き去るための宮中や諸社で行われる行事です。 今ではめずらしくなったこの年中行事も、古人の食中毒や梅雨時の衛生に対するこころ配り、そして季節の中の衣替えなど、季節の変化に適応して向かい合って行く知恵のひとつでありましょう。
雨が続く季節でも、子ども達は興味いっぱい、関心事にはことかきません。 雨で外遊びができない分、園庭の遊具ではなく、友達と遊ばなければ時間がすぎない状況も生まれます。 友達や遊びと向き合う機会到来の季節でもあるのです。


幼稚園のなかで大好きな居場所が雨で行けなくなったなら、さあどうする? 居場所は運動場の滑り台や砂場の穴掘りや、お山の横の小さなおうちなど、場所そのものかもしれないけれど、人の中にも居場所がつくれることを体験してほしいと思います。 気持ち一つ、心一つで遊びも居場所も仲間達も、みんないつでもつながりあえる、自分という財産があれば、いつでもどこでも互いを満たし合ったり、与え合ったりできるんだ、そんな自分の力を少しでも感じてほしいと願います。


同世代の中で苦労をともにしながらみくま幼稚園の社会人としてみくまの社会に参加し、作り上げて行く主人公の子ども達ひとり一人、そしてそれをあたたかく見まもり、愚痴をきいたり、文句をきいたりしながら、それでもやりがいのある社会参加に胸をふくらませて幼稚園へでかけてゆく子ども達を送り出して下さるお母さん達も子育てという新境地のなかで、自分の感触だけをたよりに同世代のなか、一生懸命に生きています。 


一生懸命につながりあい、支え合い、与え合うみくまの社会の一人です。みくまの仲間達がいっしょです。一人ではない、自分は一人きりではない、同じ時代、同じ時間、同じみくまのコミュニティのなか、たしかに共に生きて、仲間達といっしょに子育てをしている、幼稚園に来るまでの数年間をがんばって生きてきたお母さんたちに、そんなことを少しで実感していただける機会としての参観日であってほしいと思います。ここにいるのはあなたの評価をする人間ではないのです。大人も子供も、ここに、みくまにいる人たちは、あなたを一人にしない、と手をつなぐ人達です。「子どもとともに生きて行く」という事について、生き延びて行く先にはたくさんの「おそれ」が立っているかもしれないけれど、必ず生きて行く先に「希望(のぞみ)」が待っていてくれる、たどり着くその場所で首を長くして「希望」がきっと待っている、私はこの幼稚園の園長として、そう信じているのです。


7月
エールを送りたい

梅雨の終わりを知っている自然の生き物は、地面のなかに住んでいても、水の奥深くに潜んでいても、七月の声を聞き届けます。 まだ蝉の声をきく前の頃、私の父は亡くなりました。お通夜の夜には勝尾寺で、宿泊保育の夜を迎えていたことを思い出します。


日本では夏はなつかしい季節、そして鎮魂の季節でもあります。子ども達は新たな生への願いを果たすべく、この世に生まれてきたのでしょう。 人の生まれを祝福し、人の人生の終焉(しゅうえん)を寿ぐ(ことほぐ)。誕生という瞬間から、死という出口への呼び出しを待つ「人生」という待合室にいる私たち。 父や母が部屋から去る姿を見送り、やがては自分たちもこの部屋を去る。 その時に残る子ども達に何を残して行けるでしょうか。
人として、生を受け、その時間がいつ果てるかがわからないまま、それでも子ども達を精一杯育てようとしている若い母親達、親になる選択をした人も、別の選択をする人も、自分一人の生涯を自ら生きる、みずからの命の使い方をみずから定めることは同じです。 定めるために立ち止まり、定めるために迷いながらも進むのです。


子どもを育てる生活というものには、時としてのど元へ鋭い切っ先のように突きつけられることがあります。さあ、どうする、さあ、さあ、と、刀に手をかけた子どもに詰め寄られるような思いをすることの連続です。 全くの新境地の中、十分な知識も経験もないなか、判断を決済し、手を打っていかなくてはなりません。 次の一手、またその次の一手、正しいかまちがっているかわからないままの、やみくもな戦いもあります。


何が正しくて何が間違っているのか、評論したり批評する人はたくさんいるでしょう。 でも我が身に起こることは、昔の自分を思って、新たな自分の考えをつくりださねばなりません。 新たな考えというのは、誰も教えてはくれないのです。 自身が生み出す前人未踏のものなのです。 そして、結果がどうかということは、勝ったか負けたか、正しかったか間違っていたかの他人の評価ではなく、自分の思っていたこと、考え出したことがどれだけやることができたのか、この一つに尽きるのです。


これからを生きて行く、生きる時間の中に身を置く小さな子ども、若い親の皆さんを、支え、はげまし、見まもり、育み合う小さいけれど大きな場所、みくま幼稚園がそんな場所になることを願い、母として生きている人達にあたたかいエールを送りたいと願います。


8月
ありがとう助かった

毎年暑くなって行く夏休み、子どもと過ごせる夏休みも、長いようで短いもの、今から10年経てばみんな中学生です。 小さい頃の夏休みは遊んでも遊んでも日が暮れず、夏の夕方には雨のにおいと雷の音、夕立が来て夕涼みのなか、晩ご飯のにおいがただよったものでした。


夏休みには、帰省があって、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんや親戚達と、お盆や夏祭りの風物にふれる機会も多いもの。 子どもと過ごす平日の午前中がなつかしくおもいだされるこの頃です。 子どもと暮らす生活で、新米のお母さん達にとって、自分に経験がないということが、子どもにつらい思いや、育ちを促してやれない原因なのではないかと自責の思いはあるものです。
母親であれば、子どもの元へ走って帰って、泣いて謝りたいときもあるものです。 でも、ごめんなさいよりは、ありがとうを伝えてやってください。 「ごめんなさい」は 親が「いいよ」を 前提とした言葉、親が楽になりたいための言葉だと思うのです。 子どもが 「わけがわかった」ら、「おまえのせいだ」というでしょう。 困ったときに助け合う、支え合うのがパートナーであるはずで、家族はパートナーシップであるべきだと私は思うのです。 新米の親子であっても、子育てという道をいっしょに歩くパートナー同士、「ありがとう助かったよ」と言葉を口にして伝える方が百倍よいのではないでしょうか。


母子の関係は、対人関係にも影響を及ぼします。困ったときに迷惑をかけられた、おまえのせいで、というよりは、困ったときは必ずある、どんな時でもおまえがいてくれて助かったと言われる方が、きっと人の育ちの上で好ましい将来につながるような気がするのです。


「ごめんなさい、許してほしい」 ではなく 「ありがとう、助けられた」、そうして子育てルーキーの日々を過ごしてみませんか。 皆さん達も、そうして小さな頃は、初心者の親たちを支えてきたのですから。 小さな頃の自分にご苦労様、親の立場になった今こそ、小さかった頃の自分に「感謝」の気持ちをつたえてあげましょう。きっとその方が同じ難儀事でもハッピーに過ごせますよ。


9月
学んでほしい

夏至をすぎる暑さ寒さも彼岸まで。 夏の疲れが出る頃です。 夏休みが終わってあわただしい頃ですがしっかりと夜は休息がとれるよう、質の良い睡眠をこころがけたいものです。


秋は季節の変わり目、心や体の変わり目でもありますから。 秋の子どもは大きく育つ、私がこの職場に入った頃に先輩から聞かされた言葉です。 入園から半年という時間が経って、一年の半分という体験数が満ちて、それぞれの年齢のコミュニティが育ち、成熟して行く頃です。 大人の見守りが少し後ろに回って行く、差し出す手が少し数が減った分、信頼をかけてあたたかいまなざしで見守ること、失敗を防ぐことも大事ですが、失敗をしたときにどうしてゆくのか、どう挽回をしてどのように修正してゆくのか、そのことも同じぐらいに大事なことです。


これからおこる様々な子ども達の中での出来事は、その社会で存分に生きて行くための学びの要素です。子育ての最終の目的は自立です。いつの日か元気に家から追い出すために子どもを愛し、世話をし、分け与え、分け与えられている。そのことをこれからの季節で大人も実感を通じて体験し、学んでほしいと願います。のびゆく秋の子ども達をあたたかく見まもって行きたいと願います。


10月
思い込み資料館

10月は神無月、神様は出雲へ集まる月とされています。 古来から日本では万物に神宿る「八百万(やおよろず)信仰」がありました。 あらゆるものに生命が宿って魂がある、これは心の育ちのうえで、乳幼児期にはよく似たものがみられます。 そして、子どもには、大人にはみえないものがみえたり、きこえないものがきこえる、そうしたファンタジーの世界があることは絵本の世界にもえがかれて、童心として大人になった私たちの心の中にもいつもそっと息づいているものです。


子どもと暮らす日々の中で、そうした記憶や手触りがふとよみがえってくるときがあるのは、そのときの自分の気持ちがどこかで思い起こされるときではないかと思うのです。 子育てをしていると自分の過去の親子関係の記憶が引き合いに出されますが、これらのデータは「思い込み資料館」に保管されていて、その資料はずいぶん頼りになったり、気持ちを振り回したりします。 なにぶんデータを書いた自分は幼い頃の自分であって、子供心に書き連ねた資料館は子どもの思い込みが詰まっていて、大人の思慮分別は含まれていませんが、当の本人は気持ちをそのままに大人になっているので、それがただの日記帳にかかれた子ども心に感じた思い込みとは気がつきません。


大人になるということは、かつての親の気持ちになって、「わからないなりに、親も一生懸命親になろうとしていたのだ、上手にはできなかったが一生懸命だったのだろう」と理解をしてその資料館を管理できるようになること、昔の親の気持ちをおもんばかること、自分が昔の親以上になっていくということを受け入れて、今の努めを果たそうとすることだと私は思います。これから名実ともに本当の大人になって行く若いお母さんたち、どうぞ、幼い頃に一生懸命生きた自分の気持ちを、幼い頃の思いを、胸の中の「思い込み資料館」で大切に守り、あたたかく育てていってやって下さい。


11月
静かに見守る

 お正月からもう11回目の月がやってきます。 子どもの時間はゆっくり流れて、大人の時間は急いでながれます。 子どもの頃に授業がおわってからの夕日が見える運動場で、遊んでも遊んでも日が暮れなかったことを思い出します。 夕ご飯のにおいがする家に戻ると定番のテレビ番組、せわしない台所の物音、今はもう取り壊されてなくなった小さな私が育った実家、つるべ落としのこの季節になると、日が暮れてからの冷たい外気のなかに、なつかしい家のにおいを思い出します。


子ども達が小さな世間でやってゆく、仲間の中で理不尽や不条理ともつきあってやってゆく。 仲間の中で支えられ、助け合ってやってゆく。その姿は様々で、きこえてくる音は様々であっても、音をたてる音源は同一のものです。


社会の一員であると言うことは、尊重されるべき個人であることと、集団のなかの一員であることを意味します。 これからは子どもが小さな世間で自分で考えたやりかたでやってゆく姿を親御さんは静かに見守ってやってほしいと願います。


生まれて初めて我が子を育てているお母さん達もきっとそうしてほしいと願っておられると私は思うのです。あわただしい日常の中で頼みもしないのにやってくる不条理や理不尽、教科書にはのっていなかった難儀事、解答がでない問題の連続、生まれて初めて、みたこともきいたこともないことをいきなり本番でやってみるということは、そうしたことのただなかに飛び込むことでもあります。 だからこそ、家族という相方と、そして最終自分という相方と向き合って行くことが子育てだと思うのです。
大人とは、年をとれば、体が大きくなれば大人になるのではありません。たくさんのことを知っている、わかってきたつもりであっても、これから親になって行く、これから大人の年輪を重ねてゆく、その過程で、様々な出来事を通じて、「ああ、自分は本当にわけがわかったのだ」という信頼を自分にかけてゆけるようになること。大人になるということはそうしたものだと思うのです。